夏の日

ある夏の日。土曜日の午後。暑気の苛烈さの中、あえぎあえぎ自転車を走らせ、近所の神社を訪れる。
境内の隅にひっそりと立つ古い忠魂碑の前に、近くの公立高校の制服を着た一人の少女が立っているのを見る。彼女はぶつぶつと何やらひとりごとをつぶやきながら、忠魂碑をなでるように、そっと揺するように、右手でその表面に触れていた。

 ──あれは気狂いだ……

 離れた木陰に隠れるようにして、じっと彼女の後ろ姿をうかがいながら思う。私はなぜか昔から、心病んだ人間を群衆の中からかぎ分け見つけだすことが得意だった。そして彼ら、精神の病者、脳の生理作用に障害を抱えた人物達と思わず目を真正面から合わせてしまい、急いで、視線を彼および彼女から逸らす、そんなことがたびたびよくあった。

高校生の彼女は小学生のような貧弱な発育不良の体躯をしており、その目はひどく年老いていて。顔立ちは美しかったが、ただし、それは見る者に何かしら不安感を抱かせるような、ある種のいびつさを伴った形の美しさだった。

 忠魂碑にじっと視線を合わせたままの彼女が小声で独白するのが聞こえてくる。

「昭和十六年応召、昭和二十年比島ミンダナオにて戦死、昭和十九年応召、昭和二十年シンガポール俘虜収容所にて戦病死……。続々。続々。死人死人死人。死の大盤振る舞い。この町から出た何十人もの兵隊さん達の死。よくもまあ、これだけ死なせたものです、自国の兵士を」

 舞台稽古の演劇部の少女がするように、制服姿の彼女は、大げさな動作で目の前の御影石でできた忠魂碑の表面にひたいをくっつけて、独り言を続けた。

「手段と目的の逆転。帝国主義張競争下で民族の生存の為に天皇制と云う手段が、明治の建国の父祖たちによって採用された。天皇制が道具にすぎないことをなによりも、天皇自身がわかっていたのに。そう、天皇機関説でいいではないかとあの人も言ったではないですか」

 破瓜期の、心病んだ少女特有の不安定な魂。私は彼女に見つからないように隠れながらその後姿を見つめつづける。

 「しかしいつのまにか国体護持の名の下に、天皇制を守ること自体が目的化してしまい…。天皇制の為に日本民族があるのではなく、日本民族生存の為に天皇制があるのに…。国体護持の為に日本民族の滅亡へと突き進んだあの戦争は、愚劣だったと。だから…」

古い思い出。小学生の時、国語辞典に「強姦」という言葉を見つけた私が、その文字に、赤のマーカーを記しているのを担任の若い女教師に見つかったとき、あの教師の無感情な顔面に、一瞬、走った、嫌悪、あるいは恐怖の表情。

 「この国はどこか間違っています。あの戦争で死んだ人々のことももう忘れ去り。半世紀前、熱核爆弾で消滅した人々。私達の平和と繁栄の宴がいつまで続くのか。ものいわぬ死者たちの糾弾が、今も、いまも…」

 語られる内容の一語一語の激越さとは裏腹に、彼女の口調には消え入りそうな弱々しさがあった。木陰で息を潜めて次の言葉を私は待った。

 「八月十五日の高校野球の選手たちは、果たして自分たちがどの時代の何という名前の戦争の死者たちの為に黙祷を捧げているのか、わかっているのでしょうか……。子供時代、家路に急ぐ冬の道一人でみたあの夕焼けの心細さよりももっと遠いところに、この民族の戦争体験は置き忘れられてきたのであり。畢竟……」

 そう言って少女は忠魂碑に寄り添ったまま、刻まれた戦死者達の名前の上を指先でいらただしげにこつこつとたたく。
私の視線はそんな彼女の、痩身の制服姿、その小さな胸のあたりにじっと注がれていた。

……少女がいまだ処女膜を有しているか否か、もし有しているのなら、そうなら、僥倖だ、こんな素晴らしいことはないと、心の中で一人ごちてみる。救済が必要なのだ。魂の救済が。むろん、彼女に。

 「こんにちははじめまして。失礼ですが、あなたのお話を木陰でそっと聞かせてもらいました。あなたの心を悩ましていることについて、わたしも非常に関心があります。できたら二人きりでお話を、そう、ここは暑いから、神社の裏の雑木林、あそこならとても涼しそうだから、そこで一緒に語り合ってみたいと、わたしは思うのですが、いかがでしょう」

 流れ落ちる額の汗を手の甲でぬぐいながら、彼女の前に立って私は言った。振り返る彼女。じっと、しばらくの間、私を凝視したあと、彼女は答えた。

「ええ。あなたは死んだ祖父に似ている。仏間の壁に飾られた海軍士官の軍装に身を包んだ、若い祖父の写真姿に。彼はバシー海峡で戦時標準船を護衛する海防艦の主計少尉として死んでいったそうです。ええ、ああ、あなたはなんだか本当に祖父に良く似ている。そう、過酷な時代状況の中で名もない一人として死んでいく種類の人間、そんな雰囲気があなたの顔には……」

そうして少女は急に涙ぐみ、すんと小さく鼻をすすった。私は彼女の手を握った。あらがいはない。神社の裏手へと強く力をこめて引っ張っていく。彼女は何も声を出さない。そのまま誰もいない暗く静かな雑木林の奥のほうへと、連れて行く。

 彼女の魂の天秤を「悲惨」の側に押しやれば、何が起きるのか。心の救済?誰の?それは私のためでなく、きっと彼女のためのものになるだろう。そうだ、そうにちがいない。彼女には救済が必要なのだ。