亜麻色の髪の乙女

高校のバレー部の練習から帰宅して、私がセーラー服を脱ぎシャワーを浴びて私服に着替えていると、病院から祖父が危篤だとの連絡の電話があった。
その日あいにく我が家にいたのは私だけだった。私は外出している母親の携帯に連絡を入れると、うろたえて気が動転したままタクシーに乗り病院へと向かった。
病室でお医者さんや看護婦さんに囲まれ緊急処置を受けている祖父の姿を見た瞬間、あ、これはもう助からないと悟った。すると不思議と私の気持ちは冷静になってきた。
ここにいるたった一人の親族として、祖父の死をちゃんと看取らないといけない、そんな義務感がわいてきた。
ベッドに寄り添い、骨だけになった祖父の左手を優しく包み込みながら、来るべき最期の時を待っていると、不意に、混濁していた意識の中から祖父は目覚め、かすかに瞳を開けて私の顔を見つめてきた。
「……そうだ、亜麻色の髪の乙女だ」
かすかかに聞き取れる声でつぶやく祖父。
「おじいちゃん、私がわかる? 京子だよ。……大丈夫、すぐに良くなるからね」
自分でも白々しい嘘だと思った。しかし、他になんて言葉をかければ良かったのだろう?
祖父はわずかに顔を傾け、私の目をのぞきこむようにして、言葉を続けた。
「そうだ、お前と同じぐらいの年ごろの少女だった。カザフスタンラーゲリで出会った少女は」
「だめだよ、おじいちゃん、安静にしてなきゃ。無理してしゃべらないで……」
しかし私の言葉が聞こえてないのか、焦点のぼやけた目のまま祖父は言葉を続けた。
「……コルホーズの収穫の作業の手伝いだった。男は私たちラーゲリの俘虜だけで、あとはみんな女しかいなかった」
お医者さんが祖父の腕を取り注射を打った。何人もの看護婦さんがぱたぱたと入れ替わり
室内に入ってきた。
「おじいちゃん、もうしゃべらないで」
私は祖父の左手を包む両の手のひらにそっと力を込めた。
コルホーズの女達はみんな親切だった。なかでも亜麻色の髪の乙女がひときわ私たちに優しくしてくれた」
亜麻色の髪の乙女?」
私は祖父の耳元に顔を近づけて尋ねた。
「そうだ、イタズラ好きで、快活で、絶えず飢えていた私たちに黒パンをわけてくれるような優しい少女だった。歌を唄うのも上手かった」
そこで瞬間、祖父の意識が途切れた。だが、すぐにまた目を覚まし、私の方を見やって、
「なんだ、京子が来てくれてたのか」
と、ぼんやりとつぶやいた。
「・・・・・・そうだ、亜麻色の髪の乙女だ」
かすかに祖父の手に力がこもるのがわかった。
「彼女はイチケリアからカザフスタンに追放されてきたと言っていた。イチケリアがどこの土地かわからないから尋ねた。すると彼女は、『ロシア語でカフカスのチェチェニア』だと答えた。私たち俘虜の仲間は全員、チェチェニアという国がどこにあるのか知らなかった・・・・・・。彼女は誇らしげに、いかに自分が追放された祖国が美しく素晴らしい土地であるか語ってくれた」
それから数分間の間、祖父は再び意識が混濁し、意味の通じない言葉をうわごとのように続けた。
祖父はうっすらと目を開けた。
「……京子、お前はあの亜麻色の髪の乙女に良く似ていると、昔から思っていたよ」
お医者さんが、もうしゃべらないで安静にするように言った。だが祖父はそれに反してだんだんとかすれていく声で話し続けた。
「私たち仲間は彼女のことを『亜麻色の髪の乙女』というあだ名で呼んでいた。しかしもう忘れてしまった。彼女の本当の名前がなんだったかを。ただ、亜麻色の髪の乙女という呼び名だけ、今でも憶えている……。美しい少女だった・・・・・・」
不意に、祖父は沈黙した。私は次の言葉を待った。だが、何分たっても祖父の意識は回復しなかった。
お医者さんが、臨終の正確な時刻を告げた。ああ、おじいちゃんは死んだんだ。私はなぜか奇妙に冷静だった。涙も流れなかった。
――やがて数時間後、連絡を受けた親族が何人も集まり、ベッドの穏やかな死に顔の祖父を囲んで、がやがやと話し出した。
「これは大往生だよ。安らかに死ねたそうだし」
親戚の一人が言った。
遅れてやって来た私の母が、「おじいちゃんの最期の言葉はなんだった?」と尋ねてきた。
私はちょっと考えたあげく、ただ一言、
「――亜麻色の髪の乙女
と答えた。
きょとんとした母の視線を無視し、私は冷たくなった祖父の左手をそっと優しく両手で包み込んだ。