穏やかな生活・第3話


登場人物

・奥様……物腰上品な初老の女性。郊外の丘の上にある古い館に独り住んでいる。その国の陸軍の元情報将校。

・レノア……立派な魔女っ子メイドになるべく、魔法の世界からこちら側へ修行にやってきた女の子。三つ編みお下げ。銀髪銀眼。もちろんホウキは標準装備。残念ながら眼鏡はかけていない。


「穏やかな生活」



 郊外の緑豊かな田園地帯の、なだらかな丘の上に建っている、こぢんまりとした上品な館。そこが魔女っ子メイドである、レノアの職場であり、また、生活の場であった。
 この館にいる、ただ一人のメイドとして、日々の勤めを果たすべく、今日もレノアは大忙しだった。
 洗濯、掃除、料理、繕い物、そしてこまごまとした雑事の数々。それをすべてレノアだけでこなすのだ。
 魔法の世界からこちら側の世界へとメイド修行にやって来てそれほど日が長くない彼女にとって、人間世界での家事はどれも初めて経験するものばかりだった。レノアがこの家に奉公するようになってから半年ほどたつが、まだ彼女はこちら側の人間達の、その生活様式に不慣れな為、結果メイドとして仕事中に失敗を引き起こすのはしょっちゅうの事だった。
 しかし、この館でレノアと二人きりで暮らす初老の女主人――奥様は、レノアをしかりつけたことなど今まで一度も無かった。
 たとえば以前、こんな事があった。午後の紅茶を主人の書斎へ運ぶ途中、レノアが階段でうっかりつまずき、高価なセーブル陶磁のティーカップをお盆から落として粉々に割ってしまったのだった。
 その際、女主人はティーカップが割れてしまったことよりも、レノアに熱い紅茶がかかって火傷しなかったか、足元にちらばる陶器の破片で怪我をしなかったか、と、メイドである少女の身体の方を何よりも真っ先に心配した。そして少女の身体がどこも傷ついてない事を確認すると、今までの険しい表情を急に一変させ、彼女はにっこりと微笑み、「今日はもうお茶はいいから。床と階段に散らばった破片を、ちゃんと片付けておくように。その時指先を切ったりしないよう、気をつけてね。いい? レノア」とつぶやき、それからもう一度幼いメイドに向かって微笑んでみせ、彼女は長いスカートのすそをすっとひるがえして書斎へと戻り読書の続きを一人再開したのだった。
 その場に残されたレノアは、ひたすら恐縮し、階段の上に立ちつくしてしばらくの間おろおろとただうろたえ続けていた。
 そんな出来事が、あったりもした。
 

 季節はちょうど夏の始まりだった。
 黒いメイド服姿のレノアは機嫌よさそうに両目を細めながら、何か小さく鼻歌を歌いつつ、ベッドの真っ白なシーツを館の裏庭で広げて天日に干す作業に没頭していた。
「よいしょ」
 まだ幼い少女で身体が成長途中であるレノアは、こちら側の単位で測れば背たけはほんの5フィートにも満たなかった。そんな小柄なレノアが、自分の身体よりはるかに大きいベッドシーツの布を両腕で一生懸命抱え運び、それを二本の木の間にピンと張り渡された物干しロープへと覆いかける。それから、白いメイドエプロンのポケットを片手でまさぐり、そこから何個もの洗濯バサミを取り出して、布が風に飛ばされないよう固定するのだった。
 彼女がいつもかたわらに持っている魔法のホウキは今、裏庭で大きな木陰を作っている楡の木の太い幹に立てかけてあった。
 そしてその楡の木の枝々には、レノアが鼻歌交じりにシーツを干す作業をしている間、どこからか集まったのかたくさんの種類の大小さまざまな鳥達が翼を休め、じっと身動きせずレノアのほうを眺めていた。
 さえずり声ひとつ上げず、奇妙なほどおとなしい態度で鳥達は枝に止まっていたのだが、不意にそのうちの一羽、スズメの小鳥がすうっと空中に羽ばたきベッドシーツを干すロープの上にちょんと乗っかった。そしてそのスズメは物珍しそうに白いシーツの布地をくちばしで軽くつつき始めた。
「こら! 小鳥さん、やめなさい! 汚れちゃうでしょ! めっ!」
 レノアは怒ったような口調をして右のこぶしを小さくふりあげた。だが表情は明るい雰囲気のままで、ロープの上のスズメを見つめる彼女の銀色の瞳には優しげな光が輝いていた。
「ちゃんとお席に戻らないと、もう歌を聞かせてあげませんよ」
 物干しロープからたれたシーツの布を、しわができないように左右に引っ張りながら、レノアはスズメに背を向けたまま、つんと澄ました声でつぶやいた。
 レノアの言葉を理解したのか、スズメは小さな翼を羽ばたかせすぐに飛び去り、楡の木の枝へと戻りそこできちんとじっとして、もうイタズラをするような気配は見せなかった。
 ちらりと横目でその事を確認すると、レノアは満足そうに口元をわずかに緩め、そうしてシーツを整える作業の手は止めないまま、かすかな低音の鼻歌――本当に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな音での鼻歌を、再開したのだった。
 初夏の日差しが、裏庭に干されたベッドシーツを真っ白に輝かせ、また、レノアの三つ編みお下げの銀色の髪も、太陽の下、綺麗にキラキラと光を反射しており、そしてふとあたりを見回せば足元の地面の刈り込まれた夏草も古びた館の窓ガラスの並びも楡の木の緑の葉も、裏庭から柵を超えて広がるなだらかな丘の斜面の赤や青の花もさらにそれらの草花に満ちた斜面が途切れた丘の稜線の上を漂う雲も、すべてが、レノアのまわりにある世界の風景全部が、初夏の陽光の中で美しく照り輝いていた。
「はい、おしまい。それでは、またのご来訪を」
 物干しロープのベッドシーツの形をきれいに整え終わると同時に、レノアは鼻歌を止め、くるりと身体を回転させ今までじっと枝の上で彼女の鼻歌を聴き続けていたたくさんの鳥達に向き直り、にっこりと笑ってみせた。
 楡の木の豊かに茂った枝葉がざわざわと揺れ、その葉陰からいろんな種類の何十羽もの鳥達が一斉に飛び出し、青い空の中の遠くへと向かってそれぞれが別々の方向を目指し羽ばたいていった。
 ただ一羽、あのイタズラ好きなスズメだけが飛び去らずに残り、裏庭に一人立っているレノアの周りの宙空をくるくるといつまでも飛び続けていた。
「大丈夫、怒ってなんかないから。心配しなくていいよ」
 レノアは頭上のスズメに目をやりながら、楡の木の幹へ歩み寄り、そこに立てかけておいた魔法のホウキに手を伸ばした。
「またおいで。その時、イタズラしないでみんなみたいにお行儀よくしてたら、また私のふるさとの歌をうたってあげるから。……ね?」
 ホウキを両胸の中に抱き寄せその棒の柄(え)に片ほほをくっつけながら、レノアは日の光のまぶしさに銀色の目を細めつつ頭上を見上げた。
 レノアの言葉が終わると、スズメは裏庭をもう一周だけ回り、そのあと勢いよく翼をはばたかせ、空中の一段高いところまで飛び上がり、やがて、その姿を館の屋根の向こうへと消して見えなくなった。
「……さて、シーツ干しの次は、ちょっと早いけど夕食の仕込みに取りかからなくちゃ。今夜は珍しくお客様がおいでになることだし。……でもどうしよう、絶対料理失敗できない。また前みたいな失敗したら、今度はお優しい奥様もきっとすごく怒る……。どうしよう、うまく作れるかな……」
 レノアは魔法のホウキをかかえ持つ両手にぎゅっと力を込めた。
 瞬間、風が吹いた。
 初夏の風が田園の緑の向こうから吹き渡ってきた。
 ロープに洗濯バサミで止められていたベッドシーツが大きく波打った。
 レノアの黒のメイド服のスカートのすそが風をはらんでふわりとふくらみ、彼女のおでこにかかっていた銀髪がくちゃくちゃに乱れた。
「ん。……気持ちいい。……涼しい風」
 両目を閉じそうつぶやくレノア。
 ホウキを持った魔法のメイド少女は、そうして風が去った後もしばらくその心地よさの余韻を味わうかのように、じっと目をつむり続けていた。
「……料理、なんとかなるかなぁ」
 そう言って目を開くと、レノアはホウキ片手に足を踏み出し楡の木から離れ、裏庭の下草を踏みしめながら、館の小さな厨房室へと続くその古い木製の扉へと向かっていった。
 レノアはまた鼻歌をうたい始めた。明るい雰囲気のする鼻歌だった。さっき鳥達に聞かせていた時とは違い、今はもっと大きな音でうたっていた。鼻歌の陽気なリズムの合間に、時おり彼女の唇から、はっきりと歌詞の言葉が漏れ聞こえたりもした。それは彼女のふるさとの言葉だった。意味はわからないが、ひどくきれいな響きをしていた。鳥達にはわかるが人間には決して永遠に理解できない、あちら側の世界の言葉だった。