『戴冠式(ヴェンチャーニエ)』

「 ――トウキョウでは結婚式は教会でやるか? と老婆が思いがけないことをたずねる。
 ……そんなことはどっちだっていいじゃないか。
 すると婆さんは溜息を漏らす。彼女は結婚式のことを戴冠式ヴェンチャーニエという。
 ――ここではもうそれがなくなった、ここではもう……、と彼女は言って悲しそうな顔になる。」


  (長谷川四郎『シベリヤ物語』 シベリヤ物語 講談社文芸文庫 収録、短編『シルカ』より)


白皙碧眼の麗しき容顔を 嫁入り前の恥ずかしさにうつむけたまま少女は目は伏せて
シベリアあたりの辺境領から はるばるやってきた その痩せぎすのロシア娘を乗せた
蒼ざめた馬が もうすぐここに 東京北部の板橋という 半世紀前の連合軍による空襲をからくも逃れ
その古い街並を丘の続く起伏の激しい土地のあちこちの陰にいまだそっと残し続けているその街に
たどり着き やがて彼女を乗せた蒼ざめた馬は オセット人の御者の手によって牽かれ
わがボロアパートの前へと 正教会伝統の嫁入り作法に忠実にのっとり 私の元へ
日本人の私の元へ ロシア人の彼女


タチアナ・ウラジーミラヴナ・リピンスカヤ(Татьяна Владимировна Липинская)」


彼女が 今日のこの佳き日に 我が妻として 嫁入りしてくるのです
持参金の無い貧しい家の出の花嫁ですが 私は終生 タチアナを――ターニャを この心優しく聡明な少女を
愛しぬくことを 誓います