穏やかな生活・第1話


登場人物

・奥様……物腰上品な初老の女性。郊外の丘の上にある古い館に独り住んでいる。その国の陸軍の元情報将校。

・レノア……立派な魔女っ子メイドになるべく、魔法の世界からこちら側へ修行にやってきた女の子。三つ編みお下げ。銀髪銀眼。もちろんホウキは標準装備。残念ながら眼鏡はかけていない。


「穏やかな生活」

 昔の夢を視ていたのだろう。それもたぶん、懐かしいあの国でのいろいろな出来事の夢を――。
 彼女は安らかなため息をもらしながら瞳を開き、窓際の安楽椅子で上半身を起こした。窓外から差し込む夕陽の光が、年老いた彼女の横顔を真っ赤に照らしていた。
 彼女は自分のひざに、一枚のブランケットがいつのまにか掛けられていた事に気づいた。おそらく、メイドのレノアが気を遣ってくれたのだろう。
「レノア、どこにいるの?」
 彼女が静かに声を出すと、部屋の外、屋敷の廊下の奥からトタトタと足音が聞こえてきて、開け放たれたドアの向こうから、メイド服を着た小さな身体の少女がひょいと姿を見せた。
「お呼びでしょうか、奥様」
 口調は真面目に表情は柔らかにして、レノアは安楽椅子の主人のもとへと歩み寄っていった。
「このブランケット、ありがとうね」
 キルト地の布の端をつまみながら彼女がつぶやくと、レノアはにっこりとして、
「奥様がとても穏やかそうにお休みになっていたので」
と答え、そうしてそれから、銀色の瞳を自分の主人に向けてそっと細める。
「ああ、本当ね。もうこんな時間……。レノア、今夜の夕食は何かしら」
 彼女は再び目を閉じて、伸ばしていた背中を安楽椅子にゆっくりと戻しながら、柔らかな口調で尋ねた。
「今夜は奥様の好物の、キエフ風カツレツです」
 元気よく弾んだ声でメイドの少女は答える。
「そう……。あれは難しいのよね。ナイフを入れた時、ころもと鶏の間から、溶けたバターが程よくあふれ出るようにするのが」
「仕込みはしっかり済ませました! 奥様」
 レノアはこぶしをぐっと握って自信ありげに平らな胸を張ってみせた。白と黒を基調にしたシックなメイド服の、長いスカートのすそが、かすかに揺れる。
「そう、それでは、期待させてもらおうかしら」
 薄目を開け少女を優しく見つめながら彼女は言った。


 料理は失敗に終わった。
「すみません、奥様……」
 テーブルのかたわらでレノアは、しゅんとして深く首をうなだれて、その場に立ちつくしていた。
「あら、ころもは真っ黒コゲだけど、中の鶏肉は美味しいわよ。……肝心のバターはどこかに消えてしまったようだけど、ね」
「本当に申し訳ありません。簡単なものでよろしかったら、すぐに替わりのお食事を作りますので、どうか、奥様、そんなカツレツの残骸など召し上がらないで下さい」
 カツレツの残骸、という表現を耳にした彼女は、ナイフとフォークから手を離しひどく可笑しそうにクスクスといつまでも笑い声をあげ続けた。レノアは顔を真っ赤にしてますますうなだれてしまった。
「あなた、魔法の世界からやって来たのでしょう? だったら魔法で、パッとテーブルの上に料理を出すとかは出来ないの?」
 楽しげな笑みをまだその口元に残したまま、彼女は悪戯っぽい目つきをしてメイドの少女に聞いてみた。
「魔法は――」
 片方の三つ編みお下げの先を、うつむいたまま、そわそわと右手でいじくりながら、レノアは言う。
「魔法は、なんと言ったら良いか……論理体系自体は複雑精緻ですが、効果の発現そのものは、荒々しい巨大な形になってしまい……えっと、料理だとか、お掃除だとか、そういった繊細なこまごまとした作業への応用は、その、大変難しいんです……」
「でも、この世界へ来てメイド修行をするのは、そういう細かい事を出来るようになる為なんでしょう?」
「はい、おっしゃる通りです……。奥様にメイドとしてお仕えし、日々のいろいろな仕事をやり遂げることによって、形而下の世界への同化を行い――こちら側のその深奥に隠されている自然の秘儀について学び取り……それを自身の魔法へと吸収し、適応できるようになりたい、そう願って……頑張っている……つもりで……す」
 語り始めたレノアの声はだんだんと元気がなくなり、最後の方になると、ほとんど口ごもってしまい、良く聞きとれなかった。
「……なんだか難しそうな話ね」
 そう言うと彼女は再びナイフとフォークを手に取って、グズグズになっているカツレツらしき物体を黙々と口の中に運び始めた。
「奥様! そんな、ご無理なさらないで下さい! 替わりのお食事をすぐ用意しますから!」
「いいのいいの。それにこれ、本当に結構美味しいわよ? 私が軍隊時代に食べていた物に比べれば、すごいご馳走だわ」
「……すみません」
「そんなに気にしないで。仕方ないわ、あなたまだ、こっちの世界に来たばかりなんだから。ゆっくり、あせらず、料理も掃除も裁縫も、これから学んでいけばいいじゃない。……そう、私がいろいろ教えてあげるから。ね?」
「あ……。はい! 奥様! よろしくお願いいたします!」
 レノアの顔がぱっと一瞬にして明るい表情に変化した。その銀色の二つの瞳が大きく見開かれ、嬉しそうにきらきらと輝いている。

 ――まったく、世話のかかるメイドさんを雇ってしまったわねえ

 そう心の奥底で苦笑しつつ、彼女は、魔法の世界からやって来たメイド少女お手製のキエフ風カツレツの残骸に、再びフォークを立てるのだった。