1st Priority

このひきこもり生活から脱するには、自転車が必要なのだとようやく今さら思い至った。
だから2年前に盗まれたママチャリの代わりの新しい自転車を買う事にした。

布団の中から這い出すのに小一時間を要したのち、ようやく部屋をあとにし
近くの商店街へ足を引きずり引きずり歩を進めた。
近所の自転車屋は潰れてシャッターが閉ざされていた。
どないしたもんかと、暗鬱としたおもてを伏せふらふらと川越街道をあてどもなく進んでいたら、
なぜか小さな自動車整備工場の入り口に、自転車が、新品のピカピカまっさらなママチャリが2台、
ぽつんと売りに出されていた。

価格は、一万円ぽっきり。
即断で黄色い車体の方を選び、整備工場の中の奥、その暗がりに向かって、

「この自転車欲しいんですけど」

と声を投げかけてみる。

工場から出てきたじいさんは、無言でうなずくと、てきぱきと販売前の自転車の各所をチェックし、
保険登録などの書類の手続きも丁寧にやってくれた。
じいさんがその作業をしているのを私が待っている間、この工場の娘さんだろうか、
30代半ばぐらいの美人のお姉さんが現れて、工場事務所の応接セットに座っていた私にコーヒーを出してくれた。

その人は私の前にそっとコーヒーカップを置くと、事務所の片隅にある旧型のPCに向かって腰をおろし、
キーボードをたたいて、Excel経理かなにかの仕事を黙々とやり始めた。

自転車の整備が終わり、サドルの位置を調節するから乗ってみてくれとじいさんが言ってきた。
私は古ぼけたソファーから立ち上がると、その年上の女の人に向かって、

「ごちそうさまでした」

と礼を述べた。
すると不意に、彼女は、数字を打ち込んでいたテンキーの手の動きを止め、薄暗い室内、こちらを振り返り、
ほんのかすかに微笑んだ。
それは無惨なまでに生活の疲労を漂わせた微笑だった。


――ああ、私は彼女に許されている


相手の笑みを見た時、私は、確然と、そのことに気がつかされたのだった。


――そうだ、明日こそ、ちゃんと職安に行こう。ママチャリに乗って、板橋から池袋のサンシャイン60まで走って……


さて、そうして、その女の人はというと、15インチのCRTディスプレイを凝視したままで、もうこちらの方にはいっさい目を向けてくれなかった……。



余談になるが、新しいカゴ付き自転車は、その後私によって『ロージナ』と命名された。
それはロシア語で『祖国』という意味であり、また、あの『T−34戦車』のニックネームとしても、有名である。