夢のあとに

ガンスリンガーガール』のシングルCDを買った。
EDソングの、「DOPO IL SOGNO 〜夢のあとに〜」が素晴らしい。


このEDソング、仏人作曲家、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)の歌曲「夢のあとに」をアレンジして作られているのだが、歌詞は原詩(フランス語)とはまったく別のものになっている。

原詩:http://windy.vis.ne.jp/art/lib/aprev.htm

アニメの歌のほうはイタリア語で唄われていて、歌詞の内容も、まるで『アヴェ・マリア』のような感じになっている。たとえば、こんな風に。

 「お聞きください 優しいマリアさま
  どうかわたしに微笑みをお返しください
  ああ、わたしの歩みを導く恵みの星になってください
  あなたと一緒なら わたしには死も素晴らしいものとなるでしょう」(邦訳詩の一部を引用)


 「あなたと一緒なら わたしには死も素晴らしいものとなるでしょう」

という歌詞が、ガンスリ義体少女たちの約束された悲惨な未来を唄っているようで鬱になる。
機械の身体を持った人殺しの少女たち、彼女らにも最期にはマリア様の恩寵がわずかでも与えられるのだろうか。
思うに、ガンスリって本当に救いのない話だよなあ。


ちなみに、『天使祝詩(てんしのりと)』としての本家アヴェ・マリアの歌詞の一節に、

 「聖なるマリア様、神の御母、
  罪人なる我らのために祈りたまえ、
  今も、私たちの死の時も。アーメン」

という内容があるのだが、わたしはこの歌詞を前にすると、そこにある種の宗教的救済を感じるというよりも、もっとなにかこう、陰惨な気分に――どうあがいても死から逃れられない人間存在、死すべきさだめの人の子としての絶望感に陥れられるような、暗い気分になってしまう。
それはただ単に私がキリスト者ではないからだろうか。

さて、唐突だが、私は上述の文章をふまえてちょっと言いたいことがる。
コバルト文庫の『マリア様がみてる』、あの話には、タナトス的雰囲気がまったく感じられない。死の陰が臭わない。むろん、そんな作風の小説ではないと、重々承知しているが、ほんのかすかに、一点、一筋でいいから、未来ある美しく聡明で健康な少女たちの物語に、『死』という異化効果をひとしずく、ほんのひとしずくたらしてくれたら、個人的には『マリみて』は、少女小説の枠を超えて一気に純文学の高みにまで昇華するのだが。まあ、無理な注文だとは分かっているが……。

マリア様のお庭に集う乙女たちには、『死』などというものは、決して自分たちには訪れることのない、無縁の存在なのだろう。

私は、乱暴なまでの『生』のエネルギーにあふれた、無邪気な可愛らしいそんな乙女たちに、一種の激しい憎悪のようなものを覚える。
彼女らの屈託のない笑顔が憎くてしょうがない。