セブンブリッジ・エンディング

SEVEN-BRIDGE


『帰還』という物語はどのような時代のどこの国の物であろうが、常にそれは物悲しい雰囲気をまとっている。
旅の始まりの場面から、すでに悲劇的色彩が舞台のあちこちに顔をのぞかせているのだ。

話者は、叙事詩あるいは抒情詩どちらの語り口を選ぼうが、結局どのような形であれ、そこで題材に選んだ主人公が旅の終着地に帰還を果たすまでの遠い道のりの過程のそのほとんどを、艱難辛苦の連続の物語として悲劇性を大いに強調し物語るに違いない。

さて、物語作品ではいくつもの悲劇を乗り越え、ようよう主人公は故郷へとたどり着く。
ここにおいて旅の結末はその始まりと同様に悲劇的な展開を見せるのか――はたまた、めでたしめでたしのハッピーエンドを迎えるか――これはもうその時の語り手の気分次第で決まる事なので、この点に関してはなんとも言えない。

しかしただ一つ確実に断言できるのは、スタートの最初から明るく楽しいココロ弾むような帰還物語などというものは、この世にまず存在しないという厳然たる事実についてである。
たとえば、戦場の最前線で輝かしい武勲をあげて我が家へと意気揚々と帰還する兵士の物語があったとして、そのような場合ですら、悲劇の落とし穴がそこかしこにすでに二重三重に待ち構えているのだ。
兵士が還るべき国で街で家で待っているその人たち、彼らが、戦地に赴く前と同じ人々であり続けているという保証など、どこにもないのだから。
そうして大抵、このようなケースにおいては現実世界でも虚構世界でも、あまり気分のいい結末で終劇とはならないのだ、残念ながら……。

――ともかく。『帰還』という言葉はそれ自体がさながら一つの呪いの言葉のような禍々しさでもって物語の主人公にまとわりつく。
(また、この場合、主人公の生い立ちの貴賤などは二次的な要素に過ぎない。貴族であろうが平民であろうが、『帰還』は平等に悲劇的な体験となるであろう)

ところで。今回私が言及する物語の主人公の青年についてだが、彼は――オスマントルコとの戦争とさらに黒死病という古風な疫病の蔓延の結果、完全に死滅したヨーロッパの大地から、尾羽打ち枯らしてはるばる中国は北京くんだりまで難民として流れ着いて来たという過去の持ち主である。
しかも青年は家族を失った寄る辺なき哀れな幼子――孤哀子(クーアイツ)として、たった独りの身で、ドイツから北京までやって来て、死なずに、今までそうして生き抜いてきたのだ。

その出自からしてすでにもう充分に悲劇的。
だから彼が、北京―満州里経由―ドイツ行きの長距離列車の乗車券を偶然手に入れ、帰郷を――文明の滅んだヨーロッパ、祖国ドイツへの帰還を決意した時から、いやでも多種多様、バリエーション豊かな「悲劇的」体験の試練にさらされるだろうことは、最早ゲームのスタート時の瞬間から約束された既定の未来、どのような選択肢を選んでも避けられない不可避のルートだったのである。
主人公の青年の行く先に、他にどのような道があったというのだ? 他に道がない事など、パッケージの裏面とマニュアルのストーリー説明を読めば誰でも簡単に判る……。


そうして、主人公の彼は、故国へ、ファーターラントへ、ドイチュラントへの十数年ぶりの帰還を果たすべくユーラシア横断列車による長い旅に出て、ドラマツルギーのお約束どおり、道中様々な苦しみを味わうことになるのだが……。

とまあ、ぶっちゃけこの際、そんな事はどうでもいいんですけどね。
『帰還』の途につく主人公は存分に悲劇的な役回りを演じなければならないのがこの世の物語作法のルールであるわけだし。
さらに主人公のそのような苦悩やら慟哭とか存在なくしてはこの作品全体に漂う陰鬱なアトモスフィアーも成立しないわけだからして、もう、好きにしてください勝手にしやがれといった感じなわけで。



少々余談が過ぎた。(少々どころじゃない、異常なまでに、我ながら)


私がこの作品で最も感動したのは、最後、エンディングのスタッフロールにおいて、中村哲也氏描くところの淡いタッチの一枚絵の連続によって語られる、
主人公の青年とヒロインのエマの二人の「その後の物語」、それについて非常に感動した、と、その事を強く語りたかったのである。(そういえば、ヒロインの説明するのもさっぱり忘れてたが、今さら面倒くさいのでパス。ともかく、心優しくめんこい女の子だということだけは強調しておきたい。――判って欲しい。後は各自勝手に調べてください)


よく、「物語性のあるイラストとはどういうものか」という話題(議論?)が出るが、まさにこの作品の終わりに流れる中村哲也氏描くところの、
主人公と少女エマの二人の「穏やかな生活」、そのイラストこそ、私にとっての「物語性のある絵」そのもの以外の何物でもないのである。(ちなみに、私は絵の才能は描く方も鑑賞する方もまったく才能がない。あくまで、絵に対する一人のド素人からの意見として受け取ってもらいたい)


この作品を最初から最後まで味わった者は、主人公とヒロインの今までの過去、物語内における来歴を充分知っているから、
中村哲也氏の描くところの二人の「旅の終わり」後の姿、具体的に言えば細かな生活描写に満ちた「彼と彼女」の
美しい一枚絵それぞれにどっぷり感情移入し、「物語性」を勝手に脳内補完することがたやすくできるわけだが、
さて、私がここで声を大にしてことさら主張したいのは、中村哲也氏の描く絵はこの作品の内容を全く知らない人間にでも、
それを見せたら、いわゆる「物語性」というやつをなんとはなしにでもボンヤリとながらでも相手に想起させる事が可能であろう、
それぐらいの素晴らしい魅力を氏の絵は有しているであろうということである。

いやむしろ、この物語の設定など一切知識に無い人が観たほうが、余計な先入観・推測が無い分、むしろより深く、それらの絵に対し、個々人が各々自由に幅広く深い想像をめぐらすことが出来るのではないかと、つまり「一枚絵から感じる物語性」を、存分に楽しむ余地があるのではないかと勝手につらつらと思ってみたりしたわけなのであった。




ほんとは、実はぶっちゃけうとですね、英語で言ったらですね、いわゆるフランクリースピーキング? (合ってる? 俺の英語合ってる?)っていうか、俺も実際のところ、「物語性のある絵」って、どういう定義づけでみんな使っているのか知らないんだけど、まあ別に知りたくも無いんだけどね(ぶっちゃけすぎ)
まあそのなんつうか非言語的に他者に俺の考えを伝えようと努力を試みると、上手く言えんけど、その絵を見たら、「ああ、ここに描いてあるより背後のもっと奥まで情報が脳にバーっと広がる感じだなあ具体的に説明すると自動車の板金工場からトルエンかっぱらってきた田舎のヤンキーがくー、たまんねえ! と、頭をクラクラさせるような力強さをこの絵から感じるからだからこれ物語性のある絵に俺が認定!」という脳内ジュネーヴ・コンベンションが規定されているわけですが、ああやっぱり何言ってるかぜんぜん判らないですか、そうですか、とっとと脳病院へ還れこの気狂い無職ですか、いやはや怒号はごもっとも、あ、痛い痛い、お客さーん、物投げないでください、うわ、ビール瓶投げよったこん客! 殺す気か! え、本気で殺す気だった? よけるなダアホ? それは失礼つかまりました、どうです、それでは今度ご一緒に私の荘園の猟場でキジ撃ちなどご一緒しませんか? なんといってもこの国のジェントリーのたしなみですからね、狩猟は、わはははははバギューンバギューン!(ベランダからマルイのエアーコッキングのG3ライフルでBB弾を乱射しているとアパートの前に乗り付けた黄色い救急車からガスマスクに防護服姿の厚生労働省の下っ端役人が飛び出してきて座長兼主演男優の俺さま両脇を抱えられカーテン向こうの舞台裏へ強制退場とあいなり哀れ旅芸人の一座は解散、明日のナージャはオレがお前でお前がオレで? というわけで俺の人生・おしまい♪マイメロディー☆) 



すいません、酒飲みながら日記書くのもうやめます。