守り、救い給え
小田急線海老名駅郊外の田園地帯。夕景の中に遠く浮かぶ丹沢山塊と富士山の黒いシルエット。星々がかすかにまたたきはじめた暗い空を、アメリカ海軍の戦闘機が轟音をひびかせて飛び去っていく。戦闘機の翼端灯のオレンジの光が明滅し、それが彼方の夜の闇の中へ溶け込んでいくのが見えた。
季節は冬の初めだった。大学のサークルの先輩である金田さんと一緒に、田んぼの脇に建つ韓日パブテスト教会の前で、海老名駅行きのバスが来るのを待っていた。
「ごめんね田中君、教会の仕事手伝ってもらっちゃったりして。どうしても、男の人の手が必要だったから」
金田先輩の吐く息が寒さのせいでかすかに白い。
鬱病にかかっている為、日に三度、向精神薬を飲んでいる先輩。今さっき、夜の分の薬を飲んだらしく、表情が明るいものになっている。教会の中にいた時の痛々しいまでの沈鬱な姿とはうって変わり、今は陽気で饒舌だった。
「何度も教会に手伝いに来てもらってるけど、別に入信をすすめているとかそういうわけじゃないから。サークルが一緒だからって頼んでばかりでごめんね。でも、田中君のおかげですごい助かってるの。ありがとう」
早口で、少々ろれつのまわらない口調で、溜め込んでいた何かを吐き出すように一気にしゃべる金田先輩。薬の作用の為か、作り物ではない、どこかしら恍惚とさえしているほがらかな笑みが先輩の整った顔に浮かんでいる。
「あんな力仕事でお役に立てるなら、いつでも呼んで下さい」
そう答えると、夕闇の下、先輩は少しはしゃぐようにぐいと背伸びをして、
「ありがとう、本当にありがとう」と、明るい声で言う。
それからしばらく二人は大気の冷たさを味わいながら、バス停の前に立ちつくしていたが、不意に金田先輩が沈黙を破り、とうとうと、流れるように言葉を連ね話し始めた。
「あのね、この前の土曜、いつもの奉仕活動で座間の老人ホームにお見舞いに行ったの。そうしたら、いつも聖書を読んでさし上げていたおばあさん、その人が亡くなってたの」
先輩は、教会の前を一直線に走る道路の彼方の暗闇に目を向けたまま、話を続ける。
「そのおばあさんね、もうかなりのお年だったんだけれど、よく、昔の話をしてくれたの。そう、特にね、満州からの引き揚げの苦労話とか」
そこまで先輩は言うと、急に、「満州って知ってる?」と、問いかけてきたので、知ってます、と答えると、先輩は軽くうなづいて再び言葉を継ぎ始めた。
「おばあさんが言ってたの。自分たち一家は運良く全員無事、日本に還れたから良かったものの、まわりには家族を何人も失った人たちがいたって。特に、子供を亡くした人――赤ちゃんとか小さい子を、足手まといだから置き去りにした人たちも少なからずいて、そういう目にあわざるを得なかった母親、お母さんたちの気持ちを考えると、ひとごとだとは思えず、自分も胸が張り裂けそうだったって、おばあさん言ってた」
バスはまだやって来なかった。西の空の夕景はすでにその残照を失い、あたりは完全な夜、暗闇の世界に転じようとしていた。街灯の明りが、道路脇に等間隔に点々と浮かび上がっていた。
「ねえ、本当に、生き残るために自分の子供を捨てなくちゃいけなかった母親の気持ちって、どんなだったんだろう。どんな気持ちで子供を捨てたんだろう。ねえ、田中君はわかる、その気持ち?」
そう言って先輩は、じっと力強い目をこちらに向けてきた。その目を見つめ返す。先輩は目をそらさない。
「どんな気持ちだったかなんて」
先輩から視線を離して、別の方向を見ながら答える。
「わかるわけありませんよ。平和な今の時代を生きている僕なんかに」
口を閉ざしうつむく。すると、かたわらで先輩が何度も無言でうなづいたのち、「うん、そうだよね」と、小さくつぶやくのが聞こえた。
「正解。そのとおり。私たちに、あの時代の人たちの気持ちなんて、少しでもわかるはずないと思う。現代に生きているのに、当時の人たちの気持ちがわかるだなんて言う人は、絶対まちがってると思う。うん、そうだよね」
そうして先輩は、また小声で何度も、「うん、そうだよね」と繰り返した。
バスのヘッドライトが道路の彼方に浮かび上がった。二人は並んでそちらの方に目を転じた。
「でもよかった」
かすかな声、でもしっかりとした口調で先輩は言った。
「田中君が、安っぽい同情だとか、知ったかぶりの批判とかしないで。わからないことを、素直にわからないと言ってくれて」
近づくバスの姿を眺めながら先輩は言葉を発する。
「本当に田中君はまじめだね」
そうして不意に、二人の間に沈黙が訪れた。
しばらくたってから、何か言おうと思って口を開きかけると、先に先輩がしゃべり始めた。
「ごめんね、なんだかさっきから私、ちょっとおしゃべりだね。時々、こんな風になっちゃうんだ……。ごめんね」
先輩はそう言うと、今まで張りつめていた肩の力を抜くように、ふっと、どことなく弱々しい微笑をその顔に浮かべた。
バスがやってきた。二人の前に停まり、ドアが開く。
「今日は本当にありがとう」
先輩が車内へ入り整理券を取りながら、こちらを振り返って言う。その背中に続いて、一緒にバスに乗り込む。やがて、バスは静かに動き出す。
「また何かあったら、お願いしてもいいかな?」
先輩は吊り革に手をかけながら、うかがう様に首をかたむけて聞いてくる。
「もちろんですよ」
ただひとこと、そう答える。
「ありがとう」――先輩の言葉が返ってくる。
バスは夜の道路を海老名駅に向かって走っていく。
韓日パブテスト教会の屋根から突き出た白い十字架が、後部窓ガラスの向こうの夜の中に、徐々に溶け込むように小さくなっていくのが見える。
さりげなく視線を転じて、バスの振動にあわせて揺れている先輩の横顔をそっとうかがう。
車内の照明が暗いので、その表情は良く分からない。
じっと、車窓の外に流れる夜の田園風景を眺めている先輩。
先輩は今何を思っているのだろう?
そのことが、わずかに気がかりだった。
<了>