アルメニアの魔女

 エルベ河で仲良く抱き合った米ソ両軍がその一年後にはドイツの分割統治を巡って全面戦争に突入、そうして欧州で勃発した第三次世界大戦は全面的な原水爆戦争へまで発展し、結果、モスクワとロンドンが世界地図上から蒸発消滅し戦争は終結した。
 極東アジアは幸いその欧州の戦禍を逃れ、特に日本は第三次大戦の特需景気にあずかり、なんとか太平洋戦争の敗北の焦土から復興しつつあった頃。
 川崎市は登戸の我が家の隣に、ソ連邦から難民として一人のアルメニア人の少女がやってきて、廃屋同然だったその家に不法に住み着き、いつのまにか占い師稼業を始めた。
 その少女は、つたない日本語で、自分のことを「アルメニアの魔女」だと言った。
 シベリアのラーゲリから復員してきた私は、彼の地で憶えたロシア語でその不法難民の少女に話しかけ、あれこれと、細かな生活の面倒を見てやった。
 女学生の私の妹はそれがひどく不愉快だったらしい。
「にいさま」
 妹はきっと瞳を細めて私に向かって言った。
「あのアルメニアの魔女とかいう女は、占い稼業のかたわら、自分の身体を売っているという噂です。わたくし、そんな不潔な女とにいさまが言葉を交わすのを黙って見てはいられません。にいさまにまで、けがらわしさが移ってしまいます。あの、女の」
 たった一人の私の大切な妹だった。幼い頃両親を亡くした為、妹は私以外の肉親をこの世で知らなかった。戦中戦後と、幼い身で苦労しつつ私がこの登戸の家に帰ってくるのをじっと待ち続けてくれたのだ。そんな妹の言葉を、むげにはできなかった。しかしまた、異国で独り生きていこうとする隣家のアルメニア人の少女の苦労もわからないでもなかった。シベリアの大地で、私は望郷の思いに苦しんだ。アルメニアの少女も同様だろう。親身になってやってもよかろうと。
 そのようなことを私が妹にさとすように言うと、返ってきた言葉は、
「でも、やはり嫌です、あの女は。私と同じぐらいの歳だというのが、特にとくに嫌」
 と、女学生服姿の妹は、非論理的な返事をよこす。
「にいさま、あまりあの女に近づかないでください。にいさまは優しすぎるのです」
 そう、厳しい口調で言うのだった。

 そのくだんのアルメニアの魔女――黒い髪に茶色い瞳の、すこしやせぎすな体躯をした、全身これ黒ずくめの衣装の異国の少女に私はある日、ロシア語で話しかけた。
「故郷を思って寂しくないか」
 すると、少女はにこりと笑って、
「時折、ふるさとのアララト山の風景を思い出し寂しいが、特に生きていく上でこれといって支障はない」
と答えた。
ソ連が滅びて悲しくないか」
 今度はそうたずねると、
グルジア人のやつめが水爆で吹き飛び死んで嬉しい」
と、無邪気な笑顔を見せる。
グルジア人とは誰のことか?」
グルジア人とは、スターリンのことだ。やつらボルシェビキは、我らが魔術を操る一族を迫害した。ツァーリの時代はそのようなことはなかった」
 少女――アルメニアの魔女は、そうつぶやいてにっこりとした。
 私がさらに会話を続けようとすると、
「もう今日はこれぐらいにしてほしい。あまりしゃべると、あなたの妹に、もっと嫌われてしまうので」
 そう言って彼女はちらりと視線を横に向けると、すぐに私に背中を見せて会話を打ち切り、今は占い小屋として経営されているボロ屋の奥に姿を消してしまった。
「本当に本当に気味の悪い女ですわ」
 振り返るとそこには女学校の制服を着た妹の姿があった。
「だから何度も言わせて頂きます。にいさまは、優しすぎるのです」
 そうして妹は制服のスカートのすそを両手でぎゅっと握りながら怒った顔をする。
「やれやれ」
 私は仕方なく頭をかきながら、さてどうしたものかと思案するのだった。