駅舎の少女

ちょうどその頃、カリブ海キューバという島を巡って、米ソ間で極度に緊張が高まっていた。核戦争の危機を伝えるドイツ語の新聞記事を、宿屋の主人が英語で読み上げて聞かせてくれたが、それらは私には関係のない出来事だった。人類が滅亡しようが、地球という惑星が消滅しようが、さらにはこの宇宙そのものが開闢以前の「存在ではない他の何か」に再び回帰してしまおうとも、そんなことは私にはどうでもよい別の世界のお話にすぎなかった。
 宿を辞して、私は村の端の駅舎の方へ歩み始めた。
 途中、列車が鉄路の彼方からやって来るのが見えた。それは軍用列車だった。十数両ほど連結された貨車には、戦車が積載されていた。東の方へ鉄道輸送されて行くその戦車の砲塔には、アメリカ軍の白い星のマークが付いていた。列車は田舎の無人駅など無視して速度を緩めず走り去って行ってしまった。
 駅舎の中に入ると、一人の女学生服姿の少女がベンチで本を読んでいた。少女は私に気がつくと、非常に流暢な英語で、「政府の命令で、軍用列車優先のダイヤになっています。一般列車は、今日は二時間後に一本来るだけです」と、親切に教えてくれた。私はそれを聞くと彼女に礼を述べ、「これから学校ですか? だいぶ遅刻になってしまいますね」と言った。すると彼女は、ちょっとの間黙り、それから、自身のうっすらと紅いくちびるに右手をあてると、「街の学校にはもう何年も行っていません。この駅舎の待合室が私の教室です」と、ひどく晴れやかな顔をして答えた。
「失礼ですが、ご旅行中ですか?」少女が尋ねる。
「バーデンワイラーへ向かう所です」そう答える。
「あそこの湯治場は有名ですものね」
「いえ、それが目的ではなく、チェーホフが最期を迎えたホテルがその街にあるというので……」
「……ああ、なるほど」きょとんとした目をしてうなずく少女――。
 ベンチは一つしかなかった。私は少女の隣に腰を下ろした。
 それから二人の間に会話は無かった。無人駅の薄暗い待合室は沈黙で満たされた。
 ふと、私は、隣の少女が一心に読んでいる本の中身を横目で覗き込んでみた。
 それは、ウォルト・ディズニーの幼児向け絵本だった。少女は、その中に出てくる光り輝く空飛ぶ妖精の、小さな羽の輪郭を、指先で静かに撫で続けていた。

 ――本当に、列車は来るのだろうか?

 ぼんやりとながら、なんだか私は心配になってしまった。